父が暮らした
京都を訪ねて。

京町家まちづくりファンド 助成実績紹介エッセイ vol.01 / 2021-09-28

書き手:べっくや ちひろ

京町家まちづくりファンド改修助成事業 平成22年度(2010)選定の京町家『三原邸』を、べっくやちひろさんと訪ねました。

べっくやさんは、東京・高円寺にある老舗銭湯「小杉湯」編集部での活動をはじめ、ローカルに寄り添う記事の執筆を多く手がけるライターです。お父様が京都の街で長く大学生活を送られ、その頃のことをよく家で聞くというべっくやさん。「当時の風景は今ではもうほとんど残っていない」といわれる中、今も残る景観のひとつが「京町家」です。

建物を受け継いでいく住人の方が、何を思い、どんな葛藤を抱えて暮らしているのか。受け継がれてきたものを、どうすれば次世代へ手渡せるのか。べっくやさんならではの視点をエッセイに綴っていただきました。

思い出の場所が、“あの頃”のままであるように

父は京都で学生時代を過ごした。と言ってもそれはもう50年ほど前で、もちろん私が生まれるずっと昔のことだから、父から聞く話でしか知らないことだ。

あまり昔話をする人ではないけれど、大学時代の話をするときだけ父はいつもの何倍もおしゃべりになった。

下宿先の隣には年上の京大生が住んでいたこと。彼から「お前、もっといい本を読めよ」と読書指南を受けたこと。朝は大学の正門から入り、そのままキャンパスを通り抜けて西門から雀荘へ直行していたこと。そのせいで(かはわからないが)2年留年したこと。仕送りはほとんどお酒に消え、床屋代がなくて髪を伸ばし続けていたこと。狭い飲み屋でおでんをつつきながら、仲間とおしゃべりに興じたこと。学生運動のデモに飛び込み、機動隊に追いかけられたこと。

「機動隊ってのはなぜか真っ直ぐにしか走らないから、逃げるときは脇道に飛び込むといいんだよ」

子どもの頃、酔っ払った父から何度かそんな話を聞いた。

父がする京都の話はどれも、タバコとお酒の匂いに満ちた堕落的なムードとお祭りみたいな激情が一緒くたになっていて、それはいつも関東育ちの私の心を揺さぶった。

けれど近ごろは「あそこの景色はずいぶん変わった」「あの店も潰れてしまった」と、変わっていく京都をよく寂しがっている。そりゃあ50年も経てば街は変わるのだろう。店も家も、新しくなって当然だ。

でも、父の寂しさは同時に私の寂しさでもあった。私の頭の中の“京都像”は、父の思い出話に強く引っ張られているからだ。煙たい雀荘、レコードのかかるジャズ喫茶、学生向けの雑多な飲み屋や食堂。京都の古いものたちは、できるだけ残っていてほしい。そんな気持ちが私の中にも確実にある。

だから「京町家を代々住み継いでいる方にお話を聞いてみませんか」とお誘いを受けたときは、二つ返事で「ぜひ」と答えた。京都の景観に欠かせない京町家は、“ブーム”ともいえる状況にありながら、残していくには手間もお金もかかるため次の世代に受け継ぐのが難しく、年々数が減っているのだという。それでも、京都の文化を守る覚悟を持って家を継ぐ人たちがいる。そういった現状も同時に知ることになった。

父の思い出の地が、少しでも長く“あの頃”のままであるように。

そのためのささやかなヒントを見つけるべく、東京駅から新幹線に乗った。

「住み心地がいい」とは決して言えない

「こんにちは、どうぞどうぞ」

京都弁のやわらかいイントネーションで迎えてくれたのは、三原克敏さん。四条大宮にほど近い京町家に夫婦で暮らしている。

外から眺めたことはあるけれど、京町家の中に入るのは初めてだ。一歩足を踏み入れると、お寺の本堂に入ったときのようなしんとした空気に包まれた。

玄関から奥へ続く土間は「通り庭」と呼ばれているらしい。京町家には「通り庭」をはじめ特有の意匠があるそうで、「駒寄せ」「火袋」など、どの呼び方もなんだかおしゃれだ。

「吹き抜けの木組みは、準棟纂冪(じゅんとうさんぺき)と呼ばれるものです。京町家にはよくある造りですが、欄間がついているのはめずらしいみたいですねえ」

三原さんはこの家を継いで5代目。建物は明治以前からあり、築何年なのかは誰もわからないそうだ。生まれた頃は祖父母がこの家を守っており、やがてそれが三原さんの両親に、そして15年ほど前に三原さんへ引き継がれた。

「子どもの頃は中庭に五右衛門風呂や縁側があったんですけど、少しずつ改装して今の形になっています」

吹き抜けの欄間も、仏間から眺める中庭の景色も、漆喰で塗られた白い壁も。すべてが美術作品のように美しい。「素敵ですね」と伝えると、三原さんは笑って

「でも、しんどいですよ」

と言う。

「決して住み心地はね……盆地ですから、夏は暑いし冬は寒い。それに、できたての家じゃないんで、いろんなところが順番にだめになっていく。5月に一斉にシロアリが発生したこともありましたし。頑丈な建物ともいえないから、地震とか台風が来るたびにひやひやしますよ」

見えないところでは、下水や電気の設備。時代に合わせて快適さを求めていくと、かなり手を加えなければいけないという。決して「住みやすい」とは言えない家。それを助成金(京町家まちづくりファンド)とリフォームローンを活用して少しずつ修繕しながら、手間と時間をかけて日々手入れしていく。

京都には変わらずにいてほしい。

のほほんとそんなことを考えていた自分が恥ずかしくなる。古い建物、なかでも伝統的な建築技術が使われている京町家を維持していくのは、想像以上に大変なことらしい。

「京都に住んでるんや」という誇り

けれどこんなに素敵な家に生まれ育ったのなら、「残したい」と思うのも自然な流れなんだろう。そう思ったけれど、三原さんは必ずしも始めから住み継ぐことに積極的だったわけではないそうだ。

「就職で一度京都を離れて、2年ほど東京で働きました。そのときはずっと東京にいたいと思いましたね。京都の外の世界を知らなかったから、いろんなところから人が来ていて簡単に友達ができる環境が新鮮で」

でも、東京に出たことで同時に気づいたことがあった。三原さんはそう続ける。

「外に出ると『京都っていいね』って言われることがすごく多くて。『そうか、良いところなんや』って。人に言われて初めて、地元の良さに気づいたんですよね」

大人になってから気づいた“地元の良さ”のひとつが、地域との関わりだ。

「町家は構造上、道を挟んだ向かい側との関わりが強くなるんです。コミュニティの区分はブロック単位じゃなく、向かい側が同じコミュニティになる。子どもの頃は表通りがまだ砂利道で、日曜日になると表に近所の子どもたちで集まって遊んでましたね」

そして、街の人にとって特別な伝統行事である「地蔵盆」。8月にコミュニティ単位で行われる催しで、子どもたちが中心となりお地蔵さんを供養する。軒先にお地蔵さんを祀るだけでなく、小さな縁日も開かれるという。

「昔はくじ引きや金魚すくいなんかもありましたね。縁日の翌日には子どもが大勢参加するバス旅行があったり。子どもたちはみんなで遊んで、大人たちは宴会してね。楽しかったですよ」

それから、京都の話をするには外せない祇園祭。

「表に提灯を灯すとき、『京都に住んでるんや』っていう自覚が芽生えるというか。人混みが嫌なので宵山には行かないけど、お酒を飲みながら遠くをかすかに流れる祇園囃子を聞くと、いいなと思いますね」

夜風に乗って、ほろ酔いの頭に祭囃子が聞こえる。三原さんが見てきた京都の景色が、臨場感をもって浮かび上がってくる。楽しそうに話す様子が、思い出話をする父の姿に重なる。

「京都に住んでいる」という誇り、そして京町家のもつ価値。そのふたつをくっきりと自覚したとき、自然と「継ぎたい」と思ったという。

「京町家って、ちょっとしたブームでもありますでしょう。でも、今からこういう家を建てるのはとても難しい。たとえば、この家で梁に使っているような長い木は今はもう手に入らないし、大工さんも年々減ってきている。『いくらお金があっても同じ家は建てられないから絶対につぶしちゃだめだよ』って周りが言うんですよね。ここに生まれ育ったのは運命なんだな、みたいな気持ちです。祖父母や両親から『この家を継げよ』と言われたことはないですが、守っていきたいなっていう気持ちは自然と生まれてきました」

今では地蔵盆をはじめ、地域行事の調整役も買って出る。イベントを企画して京町家の暮らしを伝えるなど、人前で話す機会も多い。家だけでなく、周りの文化や慣習まで残していけたら。そう考えているという。

そして少し前、三原さんの息子から「ここを継いでもいい」という話が出たそうだ。

「僕も息子に『ああしろ』『こうしろ』と強制したくなかったから、継いでほしいと言ったことはないです。自分自身が『残そう』って思わないかぎり、維持していくのは苦痛だと思いますから。この暮らしや町家の価値が息子にも伝わっていて、『いいな』と思ってくれたのなら嬉しいです」

これからも、京都の街はきっと変わり続けていく。その中にたったひとつでも「変わらない」と約束されたものがあることを、なんだか心強く感じる。街の姿が変わっていくことを、ここに住み続けてきた三原さんはどう感じ、どう受け入れているのだろう。最後に訊ねてみると、返ってきたのはこんな言葉だった。

「色々なものが変わっていくのはしょうがないし、変わることも含めて文化だと思います。でも京都って、変わらないことに価値があるから多くの方が訪れてくれる。変わるにしても、根底にある京都らしさは残していきたいですよね。僕は、たとえばこの家が京町家の最後の一軒になったとして、なくなったら完全に“京町家”という存在が世界から消えると想像したときに『なくなってほしくない』と思う。だから、手間をかけても守っていきたいんです」

世代を超えて、引き継がれるもの

外に出ると、湿気がむっと足にまとわりついた。額からふくらはぎから汗をたらしながら、京都の街を歩く。おしゃれなカフェ、デパート、コンビニ。2021年の景色が広がる。

父に「京都に来ているよ」とLINEを送ると、「いいね。ちょっと前に行ったとき、よく行ってた飲み屋の看板が残っていて嬉しくなったよ」と返事がきた。

「あの頃の京都のままであり続けてほしい」

きっと、この街に縁のある多くの人がそう思っている。そして、そう思われながらひっそりと姿を消したものがたくさんあるはずだ。古いものを守る技術やお金を持っていなければ、消えてゆくものをただ眺めているしかないのだろうか。

そうではない、と思いたい。そしてさっき聞いたばかりの話を思い出す。祖父母から両親へ、三原さんへ、そして息子へ。世代を超えて引き継がれているのは「家」というハードではなく、「この家や街での暮らしを好きだと思う気持ち」というソフトなのだ。気持ちが引き継がれた結果、それを具現化したモノが残る。

モノ自体を物理的に維持する方法は持ち合わせていなくても、それにまつわる記憶を伝えていくことはできる。つたなくとも「残したい」「残ってほしい」という気持ちを形にして誰かに引き渡せたら、時代の波に少しは争うことができる。きっとそういうことなのだ。

そして、私が引き継いだもののことを想う。

住んだことはないし、旅行で数回しか訪れたことがない。それでも私は京都が好きだ。街の奥行きに触れるたび、憧れのような恋のような気持ちがつのる。

そう思うのは、父がかつて学生時代の思い出話を聞かせてくれたからだ。それが「毎日大学にも行かず雀荘に入り浸っていた」みたいな話であっても、「機動隊に追いかけられた」みたいな話であっても、その奥にある「京都が好きだ」という核を私はちゃんと受け取った。いつかその種を別の誰かに引き継げる可能性だってゼロとはいえない。

京都駅前の広場にはたくさんの人が行き交う。
空は晴れ渡り、京都タワーが白くそびえている。
私が生まれるより、母と出会うよりずっと前。若者だった父もここから同じ景色を眺めたことがあっただろうか。

次にここを訪れるときは、父も誘ってみようか。二人で飲んだことなんてないけれど、昔の馴染みの居酒屋を案内してもらおうか。
京都タワーにくるりと背を向けながらそんなことを思った。

【終】


この記事に登場する『三原邸』の空間と文化を次の時代に受け継ぐため、京町家まちづくりファンドが資金面を支援し、外観改修工事を行いました。

こうした京町家を1軒でも多く残していくために、当ファンドは皆さまからのご寄附を募集しています。

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